行き先を選ぶ

エリア別で選ぶ

世界地図から選ぶ

歴史

歴史概略

記録によると、カトマンズ周辺に最初の国家が誕生したのは、キラート族による統治が始まった紀元前7~8世紀頃にまで遡り、そのキラート族の子孫は現在東ネパールに多く暮らすライ族とリンブー族と言われています。 西暦300年を過ぎると、北インドのリッチャビ族が王朝を設立。7世紀にはそのリッチャビ王朝からタクリ王朝に移り、この時の王女ブリクティがチベット王ソンツェンガンポに嫁ぎ、チベットとの友好関係を結びました。ネパールの文化芸術が大きく花開いたのはこの時代と、その次のマッラ王朝時代で、この間にたくさんの寺院や宮殿が建造されました。


やがてマッラ王朝はカンティプール(現在のカトマンズ)、バドガオン(バクタプル)、ラリトプール(パタン)の3つの王朝に分裂。さらに地方にたくさんの王国や公国が登場します。その中で有力だったのが、シャハ家が統べるゴルカ王朝でした。プリスビー・ナラヤン・シャハ王は各地の公国を次々に倒し、3王国を従え1769年までにネパール統一を実現。カトマンズに王都を定めました。このシャハ王朝こそが、2008年まで続いたネパール最後の王朝です。


シャハ王朝は外国にも版図を広げチベットにも攻め込みますが、あえなく清王朝に撃退。逆に清朝への朝貢を行うことになりました。その他方で、拡大する勢力を警戒したイギリスとの間に軍事衝突(グルカ戦争)が起き、イギリス駐在官を受け入れることになりましたが、植民地化は免れました。


19世紀半ばにはジャンガ・パハドゥール・ラナが総理大臣となりシャハ王朝を無力化。100年余りラナ家が実権を握ることとなりましたが、1950年代には民主化運動が起り、シャハ王朝のトリブバン国王が政権に返り咲きます。
そして、1959年にはマヘンドラ国王が憲法を発布するものの、すぐに心変わり。翌年には議会は解散し、内閣は罷免されてしまいました。


1990年になりビレンドラ国王が、議会制民主主義の実現を宣言して新憲法を発布。立憲君主制となりますが、1996年には共産党毛派(マオイスト)が武力闘争が始まります。2001年6月1日にはビレンドラ国王一家が王宮内で射殺され、国内の混乱は益々深まってしまいます。


後を継いだギャネンドラ国王はマオイストと対立していたものの、2006年のテレビ演説で国王がネパール暦2063年の新年に合わせて国民に総選挙への参加を求める声明を発表したことから、国内では反国王の抗議運動が激化し、政局は混迷を極める結果となってしまいました。
そこで国王はマオイストと既成政党が手を結び力を強め、2002年に解散した議会を復活させることに同意。そして、2008年にギャネンドラ国王が退位し、連邦民主共和制へと移行されました。


このように長く混乱が続いたネパール情勢ですが、ようやく安定に向けての歩みをはじめています。マオイストが出没していた山の中も平和を取り戻し、トレッキングなど観光産業の復活に大きな期待が寄せられています。

略年表

世紀 年代 できごと
4世紀  

リッチャビ族がキラート族を倒し、王朝を築く

7世紀 タクリ王朝誕生。
王女ブリクティ、チベット王ソンツェン・ガンポに嫁ぐ
12世紀 マッラ王朝登場。多数の寺院や宮殿を建設
15世紀 1484年 マッラ王朝が3つに分裂。他、地方もあわせると46もの独立・公国が存在
18世紀 1769年 ゴルカ王朝、3王国などを倒してネパール統一。シャハ王朝開始
19世紀 1814年 グルカ戦争(ネパール戦争)
19世紀半ば   ラナ一族が総理大臣に選出され実際の権力を掌握
20世紀 1950年代初頭 民主化要求の高まり、シャハ王朝のトリブバン国王が王政復古
1959年 マヘンドラ国王新憲法を発布、最初の民主化選挙
1960年 マヘンドラ国王、議会を解散させ内閣を罷免
1990年 ビレンドラ国王、パンチャーヤット体制を廃止し、民主化へ
1991年 議会選挙実施
1996年 共産党毛派(マオイスト)闘争開始
21世紀 2001年6月1日 王宮にてビレンドラ国王一家殺害され、ギャネンドラ国王即位
2002年 ギャネンドラ国王、議会を解散させ直接統治に
2006年 民衆の抗議デモとストライキが外出禁止令に発展、議会復活へ。マオイストと政府軍、停戦合意
2008年 王政の廃止。連邦民主共和国に
DTAC観光情報局 twitter Followで最新情報をゲット!!
Web TRAVEL